2024年


ーーー1/2−−−  無害な天邪鬼


 
元日は、朝暗いうちから起きて象嵌加工をした。大晦日も、午後は夕食まで仕事をした。年越しで働いている人は、昨今は世の中に普通に見られる。身近なところでは、ショッピングセンターやコンビニなど。だから自宅で年末年始に働いても、別に威張れることでは無い。

 子供の頃、親から、「元日は、仕事や勉強、習い事などをやってはいけません。やるなら二日からにしなさい」、と言われたものであった。「元日はしっかり休んで、これからの一年間に思いを巡らし、穏やかな気持ちで過ごしなさい」、という事だったと思う。例えれば、キリスト教の安息日のような位置付けか。そういうしきたりも、ある意味では有意義だと思う。しかし、私個人は、世の流れに逆らった行動を取るのが、結構好きである。

 二十年ほど前になるが、元日にトラックを運転して納品に出掛けた事があった。別荘で年末を過ごすお客様の都合に合わせて、納品したのである。元日の朝早く、世間がようやく新年の活動を始める時分に、意気揚々とハンドルを握り、新春の景色を眺めながら車を駆るのは楽しかった。それは、スキーなどの行楽に出掛けるドライブとは、違った種類の楽しさだった。世間がお休みの時に、仕事で出掛けるとは、大変だったですね、などとねぎらってくれる人もいたが、私に言わせれば逆である。世間一般と違う事をするから楽しいのである。こういうのを、天邪鬼(あまのじゃく)と言うのだろう。

 世間の流れに合わせるというのは、社会人として必要不可欠な事である。それが苦手な人は、苦労をする。しかし、世間との摩擦が生じない範囲で、自分独自の行動を行うというのも、あって良い事だと思う。世間に合わせているばかりでは、自らの個性の発露が無いからである。また、あえて世間と違う行動を取ることで、自分らしさを認識する事も有る。無害な天邪鬼というのは、ある意味で好ましい、自由な生き方であると思う。

 40数年前、私が結婚した披露宴で、来賓の方、会社のヨット部の親分が、祝辞の中でこんなことを言った。「大竹君は、誰にも迷惑をかけずに、誰もやらないような独自の事をやる。穏やかで控えめだが、そういうユニークな面を持った男なのです」。そのときに引き合いに出した事例は、週末のヨット部の練習で、船橋の独身寮から房総半島先端の館山のヨットハーバーまで、原付バイクで往復200キロを日帰りしていたことだった。私にとっては、特に意識をしたことでは無く、列車で行くよりは費用が掛からないという程度の理由だったが。




ーーー1/9−−−  クール便のトラブル


 
昨年末に、子供たちの家や、知り合いのお宅へ、年越し蕎麦を送った。私が打った蕎麦を冷凍し、クール宅急便の冷凍で送るのである。

 送った翌日、次女から電話があり、蕎麦は届いたが冷蔵扱いだったと言われた。つまり生蕎麦状態だと。それを聞いて私はギョッとした。次女は、翌日食べるので、これから冷凍庫に入れると言った。

 出荷した時の伝票を調べてみた。伝票には冷凍とも冷蔵とも記載が無かった。そして、領収書には、冷蔵と書いてあった。何故このようになったのか、理解できなかった。今回も、これまで通りネットで集荷申し込みをした。そのときに間違えて冷蔵を指定したとは思えないが、一応集荷申し込みの履歴を調べた。そうしたら、ちゃんと冷凍と指定してあった。

 宅急便の会社にクレームの電話を入れた。本部がいったん電話を受けて、折り返し集荷に来たドライバーから電話があった。ドライバーは、集荷の時に冷凍か冷蔵か聞いて、お客様の指定通りにしたはずだ、と言った。私はそんな問いは受けていないと言った。するとドライバーは、それを確認しないと作業が前に進まないから、必ず確認したはずだと言った。私は、クール宅急便を使うのは蕎麦を送る時だけで、必ず冷凍で送っている。だから、問われても冷蔵と答えるはずがない。しかし、そんなことを言い合っても仕方ないので、「集荷申し込みの際に、冷凍を指定しているのだから、冷凍で送って貰わなければ困る」と語気を強めて言ったら、相手は「申し訳ありませんでした」と謝った。

 それにしても、伝票の紙面には集荷申し込みをした際にインプットした情報が並んでいるのに、冷凍の記載だけが無い。それはどういうことか、とたずねたら、ドライバーは、「そういうシステムになっているのですが、実は私ども集荷担当者も、やり難さを感じています」と答えた。

 昨年末に、某有名デパートの通販のクリスマスケーキが、配達先に融け崩れて届いたというトラブルが多数発生した。配達したのは、こちらの蕎麦のトラブルと同じ会社である。たぶん、配達のドライバーが冷凍を冷蔵と間違えて運んだのだろうと、私は思った。

 ところで、冷蔵で配達された蕎麦は、その後受けた連絡によると、美味しく食べられたそうである。それは良かった。しかし、翌日配達だったから無事に済んだけれど、数日後の配達だったなら、品質がどうなっていたか、分からない。




ーーー1/16−−− 至玉の二時間


 この週刊マルタケ雑記は、毎週火曜日に記事をアップしているわけだが、記事のネタ切れがいつも心配の種である。

 それで日常的に、ネタを思い付くたびに小さなノートにメモするようにしている。思い付いても、しばらくすると忘れるから、すぐその場でメモるのである。翌週の記事は、金曜日頃から書き始めるのだが、何を書くかはそのノートを開いてネタのリストを眺め、創作意欲が沸いたものを選んで文章化する。常時数点のネタがストックされているよう、普段からネタ探しには気を配っている。メモは、見て内容を思い出せる程度の、短いタイトルだけ記する事が多い。

 今回も、そのノートを見て、取り上げるネタを物色した。既に使ったネタは、線で消してあるから、ダブって使う恐れはない。「学生時代のパチンコ」、「リンゴ農園のモグモグタイム」、「へそ出しルックの散髪屋」、「ガソリンを飲む」などのタイトルが並ぶリストを、順番に目で追っていくうちに、一つ解せないものあった。乱れた字で、「至玉の二時間」とあった。さて、このネタは何だろう? 書いた本人が、分からない。

 字がだいぶ乱れているところから、酔っぱらって書いたと思われる。それにしても、分からない。二時間とはどういうことか? その長さの時間だと、映画のことか、あるいは音楽か。音楽にしては、コンサートだとしても少々長い。それに「至玉」という言葉は、辞書で調べても無い。「珠玉」か「至極」の間違いであろう。

 私が思い悩んでいるのを見て、カミさんが「そう言えばあなた、いつだったか、しぎょくという言葉を使って、なんだか騒いでいたことがあったわ」と言った。私が、それはどういう内容だったのか、と訊ねると、「覚えてないわ」と。人の話を真面目に聞いていないんじゃないのか、と不平を述べたら、「話した本人だって覚えてないじゃない」と返された。

 結局何の事かは分からず仕舞いだったが、このように記事になったから、まあいいか。




ーーー1/23−−−  正しくない字幕


 
震災関連のNHKの番組を見ていたら、阪神淡路大震災当時のあるエピソードが流れた。震災直後から被災地の写真を撮り続けたカメラマンがいる。被災者の困窮した状況にカメラを向け、シャッターを切るのに大きなためらいを伴ったと言う。撮るときは、カメラを向けた相手に、「いいですか?」と声を掛けるようにしたらしい。しかし、不安な気持ちに反して、ほとんどの場合、被災者からは、「なにも言われなかった」と述べた。

 これを、番組の字幕は、「何にも言われなかった」と表示した。これはおかしい。「なににも言われなかった」としか読めない。これでは、表現としてほとんど意味をなさない。強いてこじつけるならば、男にも、女にも、大人にも、子供にも、言われなかった、というような意味に取るしかない。ともあれ、発言の内容とは一致しておらず、字幕として誤っている。

 字幕を正しく書くなら、「何も言われなかった」である。おそらく字幕の担当者が、文字を入力する際に、変換を間違えたのだろう。人のミスをなじっても仕方ないが、表現の正しさにこだわるNHKにしては、ちょっとおそまつだと感じた。正直言って、腹立たしい気持ちもした。

 それを口にすると、そばで見ていたカミさんは「あら、私は普通に読めたわよ」と言った。そして、うんざりした様子で、「あなたが、何故このように小さな事で憤るのか、理解できない」、と続けた。

 時代の変化は、多様的、発散的であり、従来慣れ親しんだ秩序に戻る事を期待するのは、もはや空しいことのようである。




ーーー1/30−−−  「神田川」の歌詞


 
「神田川」と言えば、昭和歌謡の名曲の一つだと言えよう。先日もあるラジオ番組の中で流れていて、懐かしく聴き入った。

 曲の最後に、こんな一節がある。「若かったあの頃、何も怖くなかった。ただ、あなたの優しさが、怖かった」。この部分がことさら印象的で、聴くたびに切ない気持ちにさせられる。

 歌の主人公は、女性だろう。歌詞には、男女の別が分かる直接的な表現は無いが、言葉使いから見れば、女性らしい。「洗い髪が芯まで冷えて・・・」とあるから、女性に違いないと私は思う。ネットで見ると、当時は若い男性も長髪が多かったから、決め手にはならないという説もあるようだが、そんなのは屁理屈と言うものだろう。

 この一節に表された女心を、若かった頃の私は、「優しさの裏にある下心への不安」とか、「飽きたら捨てられる予感」というような、シニカルな解釈をしていた。今ではさすがに、そのように極端な見方は影をひそめ、「幸せには終わりがある事への怖れ」程度の事だと考えている。しかし、若者の恋愛につきものの、自分本位、行き違い、不信、失望、そして挫折、破綻といったものが、この歌詞によって呼び起され、聴く者を切ない気持ちにさせることは、間違いないだろう。

 数日前に、カミさんと雑談をしていたとき、たまたまこの曲が話題に上った。私が、この印象的な歌詞を引き合いに出し、冗談混じりに、「私が優しくしたら、怖いと感じるか?」と問うたら、「いいえ、嬉しいわ」と素直な返事が返ってきた。

 もはや、お互いの間に失う物も怖い物も無い年齢になっているのである。そして、我を張りあうことに費やせる時間も、残り少なくなっている。